不屈の棋士から考えたAIと人間のこれからの関係
不屈の棋士って新書をこないだ買いました。
いろんな棋士とAI(コンピュータ将棋)に関するインタビュー形式で書かれてます。
その中で、羽生さんのところだけ読んだだけですが、結局、将棋にしろ囲碁にしろ、勝負の世界でも芸術の世界でもAIと人間との関係については、それぞれ別個のものとして評価されるんじゃないかという結論となりました。俺の中で。
人間の能力っていうのは有限なわけですよ。
コンピュータもある意味有限なのかもしれませんが、無限に近い有限というか、人間のそれとは比較にならないくらい成長の速度も拡張性も大きい。これまでをみていると、今後はその差がより拡大されることは明白ですわな。
んで、結局のところ、んーとね、例えると、陸上競技の100メートル走でドーピングして世界記録出しました。勝ちました。
って人をリスペクトできんの?
受け入れられるの?
ってことと同じだと思うんですわ。
アスリートがリスペクトされる、その結果を世間に承認されるのは、その背景に才能プラス並外れた努力や積み重ねられた時間があると思うんです。人々はそれに対して敬意を表するし、感動するんだと考えます。
義足のアスリートが健常のアスリートと違わぬパフォーマンスを示すことに感動できるのも同じ理由ですわな。
もし、義足にブースターやターボがついていて、健常のアスリートよりもパフォーマンスを発揮できたとしても、誰も感動しないよね。リスペクトできないよね。
つまり、人間それぞれの個体が持つ有限性をいかに拡大したか、いかに発揮したかということが大事なのであって、結果(成果)のみを求めたり、求められたりしているわけではない、と。
見えるか見えないかは問わないけど、根拠となるプロセスがあっての結果(成果)というものを我々は求めているし、評価するんじゃないだろうか。
どんな手を使ってでも勝てば、気持ちいいのか?
カンニングしてペーパーテストの素点が良かったからと言って心から喜べるのか?
これは勝負や芸術に限った話ではないと個人的には思っていて、対人サービスでも同じ状況になるのかな、と。医療サービスや介護サービスなんかも。
治ればいいのか。
生活上の必要な介助がなされれば満足なのか。
励ましや労い、感謝の言葉や、辛さを受け止める傾聴とか。
この辺の観点が、人工知能との折り合いをつけるカギになりそうな気がします。