亡くなったことを受け入れること
ブログに書くような内容ではないかもしれませんが、今感じていることを自分が忘れないように備忘的に記録しておきます。
友人が亡くなりました。
突然のことで、その連絡をもらったときも信じられず、何かの冗談ではないかという気持ちがありました。
しかし、その後いろいろな友人と連絡を取り合っているうちに、友人が亡くなった事実が自分の中で少しずつ固まってきたんだと思います。
職場から有休取得の許可が得られたので、東京から地元に戻って、通夜とその翌日の告別式に参列することにしました。
通夜の会場には、友人の車に乗せてもらって一緒に向かいました。その友人も地方から札幌に戻ってきたのですが、「札幌に帰ってきてからヤバイわ」と言っていました。
しかし、自分は友人が亡くなった事実は少しずつ強く認識していましたが、実感はまだ強くありませんでした。
通夜の会場に入るときに、おじさん(亡くなった友人の父親)の顔や友人の弟が喪服を着て並んでいるのをみて、突然泣けてきました。
ですが、まだまだ信じられない、事実を受け入れられない状態でした。
通夜では、小学校や中学校時代の友人たちと本当に久しぶりの再会を果たして、友人が亡くなった悲しさと懐かしさがごちゃまぜになった不思議な感覚の中で過ごしました。
亡くなった友人の遺体の顔をみても、眠っているようにしか見えず、言葉ではうまく表現できない気持ちがありました。
「本当に亡くなったのか? 何かの間違いや冗談じゃないのか? でも遺体はここにある。夢なのか? よくわからないな」
って感じ。
その日はモヤモヤした気持ちでよく眠れませんでした。
残された家族、奥さんやお子さん、両親や兄弟はどんなに辛い気持ちだろうと、自分が考えても仕方ないし何にもならないのをわかっていながら、ただぼんやりと考えていました。
翌日の告別式にも参列しました。
そのときも初めは通夜のときと同じような、なんとも言い表せない気持ちで臨んでいました。
式は滞りなく進められていき、出棺前に棺に花を入れる時間になりました。
多くの人が順々に花を棺の中に入れていき、自分の番になりました。
なんだかまだ友人が亡くなった事実を受け入れられていなかったのか、ふと、花を入れるときに彼の名前を呼びながら顔に触れてみました。
「冷たいっしょ……」
友人の枕元に立っていたおじさんが、僕に語りかけてきた瞬間に、涙が止まらなくなりました。
想像できないくらい冷たくて、体温が感じられなくて、本当に亡くなってしまったんだ。
もうくだらないことを話したり、一緒に飲みに行ったりもできないんだ、という思いが襲ってきて、拒絶しようがない事実に飲み込まれた気持ちになりました。
そこから数分涙が止まらなくなりました。
あとで少し落ち着いて感じたんですが、遺体の存在は亡くなった事実を受け入れるのに、とても重要だなと。
御嶽山の災害や東日本大震災の津波でも、行方不明者の遺体を警察や自衛隊の多くの職員が探しだしました。
当時の僕は、「これだけの期間見つかっていないわけだから、残念だけど生きているとは考えられないし、亡くなってしまっているだろうな」くらいしか考えが至りませんでした。
ですが、今回の経験を通して、残された遺族にしてみれば、遺体がないと亡くなった事実を受けれることができず、「いつか戻ってくるんじゃないか」「どこかで生きているんじゃないか」という気持ちが残ってしまい、次に進めないと感じました。
まだ信じられない、事実を受け入れられない気持ちがありますが、遺族はそれ以上に混乱した気持ちになっていると思います。
何ができるわけでもないけど、また地元に戻ってきたらおじさんや弟と関わり、亡くなった友人の話をしたり、自分自身が折に触れて友人のことを思い出すことくらいしかないな。
そうすることで、自分の気持ちも整理されるだろうし。